盛岡家庭裁判所一関支部 昭和43年(家)339号 審判 1968年11月20日
申立人 高山ゆき(仮名) 外二名
相手方 高山照夫(仮名)
主文
相手方は、申立人らに対して金一七万五、〇〇〇円を即時に、昭和四三年一一月以降月二万五、〇〇〇円宛を各月末までに送金して支払え。
理由
本件は、当裁判所昭和四三年(家イ)第二六号ないし第二八号扶養調停から審判に移行したもので、右調停は昭和四三年四月一三日に申立てがあり、同年六月二六日、七月一七日、七月二四日、八月二一日の四回に互つて開かれたが合意の運びに至らなかつたものである。
(申立の趣旨等)
申立人らは、「相手方は、申立人ゆきと亡夫茂夫との間の長男、申立人勝夫、同菊夫は三男、四男で、従来申立人らと相手方は○○字○○△△ノ△で生活を共にしてきたところ、相手方は妻子とともに昭和四二年一〇月一日新築の肩書相手方住所に転居し、しばらく食事を運んでくれて、若干の小遣銭も給していたが、昭和四三年二月二三日以降これをやめ申立人らを顧みなくなつた。止むなく申立人ゆきは、大学受験勉強中の勝夫および高校在学中の菊夫には転校させて、申立人ゆきの実兄笹原満夫を頼り、その世話で肩書住所に移つた。しかし、申立人ゆきは病弱で就職もできず、右実兄から食糧やわずかの小遣銭の援助があるだけで、勝夫、菊夫には収入はなく、親子三人の困窮は甚しい。申立人ら親子三人の諸生活費は月七九、〇六〇円を要するので、同額の扶養料を請求するため本申立に及んだ。」というのである。)
なお、申立人ゆきは、昭和四三年三月二六日相手方に対し相手方との円満な家庭生活を求める旨の親族間調整の調停を申し立てたが、同年四月一三日これを取下げて、前記扶養調停を申し立てたものである。
よつて、審案するに、戸籍謄本、調停の経過、家庭裁判所調査官の調査報告書(二通)等一件記録編綴の各資料を綜合すれば、次の事実を認めることができる。
(紛争の実情等)
相手方照夫は、申立人ゆきと亡夫茂夫との間の長男で、申立人勝夫は三男、申立人菊夫は四男で、なお、申立人ゆきと亡夫茂夫との間には長女文子(昭和一五年一月一七日生)がおり、二男安夫は六歳時に病没している。
申立人の亡夫高山茂夫は、○○町○○△△ノ△で歯科医を開業していたが、昭和三四年九月一日に病没しし、申立人ゆきは、代診を依頼して経営を続け、当時日本歯科大学の学生であつた相手方照夫に送金し、その卒業、家業承継に多くの期待を寄せていた。右文子も技工の手伝などして兄である相手方のため歯科医のいわゆる地盤を護るため尽力してきた。
ところで、相手方照夫は、昭和三五年五月頃から現在の妻秀子と事実上の婚姻生活に入り、昭和三七年三月前記大学を終え、同年六月九日長男照秀をもうけ、同月二二日婚姻届をし、同年七月以降申立人らと同居、家業を継ぎ、翌昭和三八年四月妻秀子長男照秀も同居するようになつた。同居当初は、家計は申立人ゆきが担当していたが、しばらくして、相手方の妻がこれに当つた。そして、昭和四二年一〇月相手方照夫夫婦親子四人(昭和四一年一一月三日政秀出生)は肩書地の新築した家屋に転居、申立人ら親子三人は残留した。相手方は別居後も食事を運んでやり申立人ゆきに月一、〇〇〇円、申立人勝夫、同菊夫らに各月五〇〇円の小遣を、また勝夫の盛岡での高校下宿生活費月一四、〇〇〇円の支給を続けていた。
かくするうち、昭和四三年二月二〇日申立人ら親子と相手方との間で「相手方は申立人らに○○字○○△△の△所在の木造二階建家屋延二七・七五坪を贈与する。相手方は今後申立人らの世話を一切しない」旨の契約を締結してから、相手方は、申立人らに対して食費小遣銭等の支給を中止した。止むなく申立人ら親子は、盛岡市に在住する申立人ゆきの兄笹原満夫(当六六年、○○○○協議会事務局長、病気休職中)を頼り、同年四月一日肩書地に転居した。
(申立人らの生活状態)
肩書住居は、○○婦人共同作業所(ホームスパン作業所)の六畳一室で調度品も殆んどない。申立人ゆきは高血圧、糖尿症、現在左足関節疾患で通院中で稼働能力はない。収入としては、右作業所の管理費として月一一、二〇〇円の収入があるだけ。申立人勝夫は、大学受験準備のかたわらアルバイトで夜間二時間ほど働けば二〇〇円の収入があるがそれも不定額であり、同人の小遣銭に当てられる程度というべきで、家計の収入として計上することは酷に近い。申立人らの食事は前記笹原満夫方でとつている。なお、申立人ゆきは、福祉関係機関に公的扶助の相談をしたが、相手方の生活経済力からみて援助を断わられたという。
なお、申立人ゆきの唯一の資産として、前記相手方から贈与を受けたとする○○の旧家屋があるが、その宅地六一・一四坪は前記笹原満夫名義となつており、同人は、右家屋も真実の所有者は自分であると主張しており、その真否はにわかに断じ難いのであるけれども、目下のところ、同家屋は空家となつており、賃貸などして利用されておらず、従つて、右資産からの収入も現在では考慮の外とせざるを得ないし、資産として計上することも相当ではない。
そこで、申立人らの最低生活費の額を算するに、調査官の調査報告書によれば、いわゆる労研方式に従うと、現住居の盛岡市においては月三五、〇〇〇円である。従つて、最低生活を維持するには前記収入から、職業費を約一割とみて、これを差引き、他より二五、〇〇〇円の援助が必要である。
(相手方の生活状態)
相手方の資産は、前記新築の肩書地所在の木造トタン葺二階建家屋六七・一二坪およびその宅地一五四・七六坪である。収入は歯科医として国民健康保険による医療費支払額、社会保険等岩手県社会保険診療報酬支払基金からの支払額および患者負担金を合わせると月平均二一〇、〇〇〇円となつている。これから経営経費月平均八〇、〇〇〇円としてこれを差引くと一三〇、〇〇〇円、なお公租公課職業費をその一割五分とみて家計への収入は月一一〇、〇〇〇円を下らない。なお預貯金額は現在額五〇〇、〇〇〇円である。負債としては前記家屋新築の際の融資金六、〇〇〇、〇〇〇円のうち、昭和四三年六月現在未返済額は二、五〇〇、〇〇〇円、その完済期限は昭和四七年六月で、その月々返済額は六〇、〇〇〇円、三ヶ月毎の利息九七、九二八円という。
ところで、右債務の弁済をすれば、生活費は月二〇、〇〇〇円に足りないという計算になるけれども、相手方の妻は従来の生活費は三、四万円であつたといい、また相手方は、最近肩書地に開業したので経営経費は診療所の賃借金、通勤費の合計月約八、八〇〇円の減少があつたことになり、また器材薬品等も一四、〇〇〇円の減少が見込まれる状態であり、しかして、従来前叙のように、申立人らと現に同居扶養し又は別居扶養をしてきたこと、なお、相手方の収入が前記のとおり月一一〇、〇〇〇円とすれば、家族四人の生活費は、労研方式によれば一人当り月三七、九三一円で、四名の最低生活費の合計三三、六四〇円と対比すれば、その生活水準はよほど高いといわなければならない。これらを勘案すれば、相手方は、その社会的生活水準、地位に影響を及ぼすことなく、その生活を切りつめれば、前記申立人らの前叙の最低生活費扶助するに足りる充分な資力があるといわなければならない。
(申立人ゆきの他の実子、および実兄の生活状態)
申立人ゆきの実子、相手方の妹高山文子は、昭和三七年相手方と同居することなく、盛岡市に出て県庁のアルバイトをして独立し、昭和四〇年頃から○○○○センターの事務員をしてアパート生活をしている。その手取り額月収二一、〇〇〇円、資産はなく、家賃等の生活費、婚期にあることを考慮すれば生活に余裕はなく、申立人である母および弟らを扶養する能力はないといわなければならない。
申立人ゆきの実兄前記笹原満夫は、現在病気休職中で、現在前叙のとおり申立人らを援助しているが、長く援助を続けることができないという。申立人らに対する法律上の義務を認めるにしても、直系血族としての相手方の後順位にあると解するのが相当であり、道義上の扶養を期待するは格別本件では同人に対し申立てもないから扶養義務者とすることはできない。
(扶養の程度、方法)
以上の次第で、相手方は申立人らに対して扶養の義務があると認むべきところ、相手方は申立人らが旧家屋へ復帰すれば、食糧を現物支給し、小遣銭も各自に月一、〇〇〇円宛与えるといつて、いわゆる引取扶養を約しておるけれども、申立人らは、調停の段階においても右復帰を希望しておらず、且つ現状では申立人らと相手方との人間関係の破綻は和合の方向にむかつていない。然らば、金銭扶養も止むを得ないといわなければならない。
そうであれば、相手方が大学教育をうけ、資産を相続し、前叙の如く同居、別居して扶養したこと等を考え合わせると、相手方は申立人らに対し前記認定の最低生活費を送金して扶養すべく、本申立のあつた昭和四三年四月以降月金二五、〇〇〇円(四、五、六、七、八、九、一〇月分は直ちに)を各月末までに送金して支払うのが相当である。
なお、扶養の終期は、申立人勝夫、同菊夫については大学卒業までとすることが考えられるが、これを定めないこととする。申立人ゆきの医料費については、その額が不明であるところ、相手方において、これを負担する経済力があるかについても直ちに判断し得ず、双方協議のうえ定めその任意の負担を期待するほかはない。
よつて、主文のとおり決定する。
(家事審判官 丸山喜左エ門)